連載企画!!

「私にとっての障害受容」〜パート6〜

当事者なら障害があることで一度は悩みしんどい思いを抱えたことがある人は多いと思います。障害受容ができにくい理由は人それぞれですが、何かをきっかけにもっともっと自分を好きになって楽しい人生を送ってもらいたいという願いを込めて『ニュースドリーム』では当事者の方々の障害受容をめぐっての連載をしていきます。第6回目は自立生活センター・まいどで活動されている岸田美智子(きしだ・みちこ)さんです。 
プロフィール
岸田 美智子(きしだ・みちこ)

大阪市立早川福祉会館の玄関前でお花をバックに岸田美智子(きしだ・みちこ)さん 1953年7月 大阪市住吉区に生まれる。小、中、高12年間大阪府立堺養護学校で過ごす。

1979年2月 介護問題に取り組む団体として「おおさか行動する障害者応援センター」を設立したメンバーだった。

1989年4月 障害者の入所施設の生活改善と施設障害者の人権講座に取り組む「ライフ・ネットワーク」を設立し、現在は社会福祉法人あいえる協会の評議委員。

1995年5月 あいえる協会が運営するグループホーム「ほんわか」を設立し、同時に入居。地域で自立生活を始める。 

1997年4月 自立生活支援センター・ピア大阪のピアカウンセラーとして勤務。

1998年5月 自立生活センター「まいど」を設立し、代表を務める。

1998年7月 自立生活センター「ほんわか」を出て、24時間介助体制を作り、一人暮らしを始める。 

障害受容は社会との関係性から・・・!
 私は7カ月の 早産で生まれました。たぶん未熟児だったと思いますが、1歳半の時に兄のはしかがうつり、その後遺症で脳性マヒになったのではないかと聞いています。抵抗力がなかったことが原因だったのか私自身は定かではないのですが、そのように受け止めています。私の家族は両親と兄と祖父母の6人家族でした。祖父母はその当時としては結構開けた考え方を持っていたようで、孫娘の私をどこに行くにも抱っこして連れて行ってくれたり、家にお客さんが来てもきちんと紹介してくれた思い出があります。
 私自身は引っ込み思案だったようで、お客さんが来ると嫌がって隠れていたと思います。そして、実家は、当時、油とタバコの販売をしていて母もそれを手伝っていました。皆が忙しいときは「ちょっと店番しといてー!」と言われお店に座らされた思い出があります。
 当時はTVの存在もめずらしいことだったので、隣近所のつきあいや立ち話などのコミュニケーションがさかんだったと思います。私はもともと言語障害があったのでお客さんとの対話が、きっと嫌だったのでしょう。そんな私は3年遅れで堺養護学校に入学しています。つまり就学猶予、免除だったのです。私の障害は重度で両手足がほとんど使えず、着替えやトイレなどは自分でできないので、両親は学校生活は無理だろうとあきらめていました。
 でも、当時お客さんとして来てくれていた近所のおばちゃんが「うちの孫も障害児で寝たきりだけど、学校に行ってるよ。だからあんたとこのお孫さんやったら充分いけるんとちゃう?」と私の両親に言ってくれたそうです。私はそのおばちゃんの一言で学校生活を奪われずにすんだのです。この出来事は、私の人生にとって大変大きなことだったと思います。3人の男女が手話で『I Love You』。1人は車椅子の女性。

 私が自分の存在が 皆と違うと感じたのは、次のような時でした。
 幼い頃、祖父が映画館によく連れて行ってくれたのですが、行く道でお菓子のミルキーキャンディやサイコロアメなどを買ってもらえるのでそれを目当てについて行ってました。ある日、映画館で私の隣に座っていた、たしか男の子だった気がしますが、この男の子が私をみて「気持ち悪い」と言いました。この体験が妙にくっきり私の頭の中に残ってしまいました。
 今から考えるとこの体験がきっかけで自分が障害者だと認識していったと思います。このように学校にも行けないし、気持ち悪い存在なんだ、という障害はマイナスイメージだと認識させられていったと思います。でも、私の家族や地域の一部の人たちが障害をマイナスとはとらえず、積極的にかかわってくれていたことが“おおきな力”となったと思います。現在の私が、もし障害受容ができているとすれば、家族と地域の人たちとの関係が大きかったのだと思います。

 そして、私の 学校生活は小・中・高の12年間はすべて養護学校で過ごしました。私の学校生活では、クラスとは別に勉強するときは、受験コースや、普通コース、商業コースなどの4つに分かれていて能力別になっていたと思います。
 そしてまた忘れられない体験として、高等部の何年生だったかは忘れましたが、授業中に機動隊が1回入ってきた思い出があります。この事件は“片平闘争”(かたひらとうそう)と呼ばれ、軽度障害者であった片平さんが養護学校にアルバイトで雇われていて、給料が半人前しかもらえないという問題があったと、卒業してから聞きました。
 この問題に当時は、学生運動のセクトが絡んで政治的な問題になっていたようです。当事者である片平さんは、よく図書室に座っておられましたが、私たち生徒は、先生から「近づいてはいけない、何も話をしてはいけない」とだけ言われていました。本が好きだった私は、よく図書室に行ったので片平さんとお会いすることが多かったのですが、あいさつぐらいしかできていなかったのです。でも、“なんでそこに座っているの?”といつも聞いてみたかった思い出が残っていますし、何となく怖いというイメージが残ってしまいました。 この片平問題を私たち生徒や、皆に伝えたくて関係者は学校内でビラをまこうとしたので、それを止めるために機動隊が来たそうです。この片平問題をきっかけになんとなく社会がおかしいのでは? とか養護学校がおかしいのでは? とか、心の中では思い始めていたと思います。そして話は前後しますが、高等部に入学するとき、小学校入学と同じように入学試験がありました。高等部は隣の棟の教室に移るだけなのに、なぜ皆、行けないのか!? とても疑問に思いました。高等部に入れなかった同級生は知的障害の方と私より重度の方だったのです。でも、入学できなかった人たちはとても高等部に行きたがっていました。
 私たちの学年はこのような問題を考えていきたくて、高等部に入学できなかった同級生たちと同窓会を作り考えようとしていました。話の内容は忘れましたが、確かこの問題で校長室にも話に行った思い出が残っています。そして、その頃の私の中の障害者観はあいも変わらずマイナスイメージでした。でも、これは社会がおかしいのだと、認識していたと思います。車椅子の男性、女性の周りに集まる人達。

 私が高等部を 卒業して社会に出たときに、今までの学校生活は楽しかったけれど、大切な経験や人間関係を奪ってきたのではないかと、しみじみ考える体験をしました。それは初めてのボランティアの介助者に自分の家の場所を説明できなかったという体験がありました。これは自分の家を他人に説明するという必要性や体験がなかったし、公共交通機関を使って行動したことがなかったのです。それは、学校のスクールバスと母親の運転で送迎してもらっていたからだと思います。また、駅に運賃表がありますが、その頃の私は、初めてみたので「あれ何?」と聞いていた思い出がはっきりと今も残っています。もちろん電車に乗るときは、お金を払うことも駅には運賃表があることも知っていたのですが、実際にそれを使って自分で運賃を確認した経験がなかったからだと、その時に気がつきました。
 この二つの体験で私は、こんなに奪われてきたものが大きいのか、その大きさに怖くなった感覚が今も残っています。そして、私のような重度障害者がどんな暮らしをしているのか? と、探しまくっても、この頃はわかりませんでした。やっと出会ったのが、入所施設の中の人たちの存在でした。そして、この入所施設の問題は、今現在でも残っていますが、その中でも、この時期に出会った問題が女性障害者への介護減らしのための強制的な子宮摘出問題や、優生保護法の問題でした。私のような重度障害者は黙っていれば身体を傷つけられたり、殺されていくのだと実感した体験でした。
 このような体験がこれまでの人生の原点になっていると思います。この体験後の私の人生は、いろんな人との出会いがあり、障害のプラス面を考えていこうとする考え方や、障害は一つの個性として受け止めることを中心にした、つまり自己決定・自己選択を大切にした障害者運動に、巻き込まれていきました。そして、障害者になったことでの暮らしにくさや、不便な問題はそのほとんどが社会との関係性の中で起こってくる問題であり、障害者本人の問題ではない、つまり社会のシステムの問題だと考えられるようになってきています。このような考え方が私の中の障害受容に大きな影響を与えてきたと思うし、今後も与え続けるだろうと思っています。

お花(チューリップ)をバックに岸田美智子(きしだ・みちこ)さん  現在の私の生活は、24時間、ヘルパーを使って一人暮らしを始めて今年で9年目になりました。平日は月〜金曜日までは自立生活センターで勤務し、たまには職場仲間と飲みに行ったりしていますし、給料をいただきながら障害基礎年金とあわせて経済的にも生活保護制度を利用せずにどうにか成り立っています。  休みの日で土・日などはほとんど遊びに出かけていますし、家にいる日は自分の部屋を片づけたり、おいしいものをヘルパーさんと手作りしたりするという、当たり前な自立生活を実現しています。 もちろん、ヘルパー不足の問題や仕事でのストレスや人間関係の問題は抱えていますが、その問題は私が障害者であることとは関係ないと考えられるようになっています。だって、誰にとっても人生は楽しいことばかりではないのですから・・・。  私の生活する上でのモットーは“のん気・根気・元気”です。今後も障害者仲間が皆、ひとりひとり自分の障害者ペースで“のん気・根気・元気”でやってほしいと願っています。
☆出版活動として☆ 岸田 美智子(きしだ・みちこ)さん
女性障害者の問題をテーマにした『私は女』を出版(1984年1月)。金満里(きむ・まんり)氏と共著。
『わたしは生活達人』(1992年12月)ハンディキャップライフ研究会
『社会福祉のなかのジェンダー』(1997ン円5月)ミネルヴァ書房。共著。
『サロンあべの』の機関誌に毎月連載中(10年以上)
                                 ※ピア大阪 情報資料室にも上記の本があります。


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