連載企画!!

「私にとっての障害受容」〜パート7〜

当事者なら障害があることで一度は悩みしんどい思いを抱えたことがある人は多いと思います。障害受容ができにくい理由は人それぞれですが、何かをきっかけにもっともっと自分を好きになって楽しい人生を送ってもらいたいと7回目の今回は京都ライトハウスに勤務されている野々村 好三(ののむら・こうぞう)さんです。 
プロフィール
野々村 好三(ののむら・こうぞう)

 1974年京都府生まれ。小学生から高校生まで盲学校に学び、大学卒業後、98年より大阪府立柴島高校(おおさかふりつくにじまこうこう)などで点字を教えるほか、盲ろう者ガイド・コミュニケーター(2006年に大阪府の制度に一本化。現在の制度名は大阪府盲ろう者通訳・介助者派遣事業)、障害者自立生活援助センター・とよなかにてピアカウンセラーを経て、2001年より西成障害者会館に勤務し、05年より、現職場・京都ライトハウスに勤務。
 06年結婚。現在、妻(弱視、「自立生活センター・Flat(フラット)きた」にてピアカウンセラー)と大阪市内で二人で暮らす。
 現在の主な活動:「地域の学校で学ぶ視覚障害児(者)の点字教科書等の保障を求める会」のほか、映画やテレビへの視覚障害者のアクセスについての活動。

どこまでいけば「障害受容」できるのか?
< 「目が見えるようになりたい」と思っていた頃 >
 生後まもなく両親は、僕の目に障害があると知り、目が見えるようになってほしいと願って僕を病院やお寺へ連れて行きました。そんなわけで、僕自身も、物心ついた頃から「目が見えるようになりたい」と思っていました。
 しかし6歳の頃、「これ以上視力は上がらない」と医者に診断され、親もあきらめがつき、以後、僕自身も「目が見えるようになりたい」とは思わなくなりました。

< 自分の置かれている環境への疑問 >
 小学生になった僕は家から離れた盲学校に通っていたので家の周りには友だちがおらず、一人で遊んでいました。休みの日も、親に連れられてしか外出できませんでした。また、夏休みに従兄弟が集まってもみんなは漫画を読んでいて、僕はぼうっとしているということもありました。 それまで、目が見えないことについて周囲からとやかく言われることがほとんどなかったので、むしろ、どうして、こういう環境にあるんだろう? と疑問を持つようになりました。 かばんを肩に掛けた男性(視覚障害者)が白杖を使って歩いている様子

< 「障害」の意味を意識し始めて・・・ >
 学校で白杖を使て歩く訓練を受け、中学生からは行きなれた場所へは一人で行けるようになりました。学校帰りに寄り道の楽しさを見出し、それまで道草すらできなかったことを残念に思いました。また、好きな女の子のクリスマスプレゼントを近所のスーパーに買いに行き、「こっちも忙しいねんから、これからはお母さんと一緒に来て」と言われて悔しい思いをしました。一人出歩く中で、親切にされること、冷たくされることを経験し、中学3年生の頃には「自分がどんどん外出することで、視覚障害者のことをいろんな人に知ってもらいたい」と考えるようになりました。
 この間、14歳で失明。しかし、それまで、さほど視力に頼る生活をしてきたわけではないので大したショックもありませんでしたし、「もう失うべき視力はない」と思えたことで自分の気持ちも安定しました。 本棚の前で右手に白状を持っている野々村好三(ののむら・こうぞう)さん

< 肌で感じた「健常者との違い」 >
 僕が12年を過ごしてきた盲学校では、当然のことながら、見えない・見えにくいことが「普通のこと」でした。また、健常者とは違うんだと知ってはいても、実感する場面はありませんでした。
 そんな僕が大学に入学して大きな衝撃を受けたのは、見た目についての話題が多いこと、周囲の様子がわからないこと、そして、点字になっている本に比べ、とても多くの墨字(点字に対して目の見える人が使っている一般の文字)の本があることです。つまり、「情報から疎外されている現実」に直面したのです。
 盲学校にいた頃は、「情報」といえば、墨字のものを点字にすることをイメージしていましたが、健常者の中に身を置くようになり、「周囲の様子」は重要な情報だと気づかされました。なぜなら、他の人の行動が、自分の行動を決める際の大きなヒントになるからです。
 こうしたことがきっかけとなり、以後、視覚障害について考えていく上で「情報」が自分にとっての大きなテーマとして意識されるようになりました。

< 「情報」の問題の難しさ >
 さらに「情報」の問題について踏み込んで言えば、周囲の様子がわからないのは「今」だけの問題ではなく、それまでの「積み重ね」があります。つまり、目が見えていれば、高校生なら高校生なりの、20代なら20代なりの振る舞い方を見て「常識的な行動」を身につけていますが、目の見えない僕は、それを、知ることができません。ですから、いまだにこういう場面ではどんな服装をして、どんな食べ方をすればいいのか判断しづらいのが悩みの種です。
 そして、自分の食べ方や服の着こなしが人のやり方と違っていても、指摘されない限り気づくことができません。人と違うと知りつつ自分のポリシーでやるならいいのですが、違うかどうか、誰かに聞かなければわかりません。人によって価値観も違えば、本音を言ってくれるとも限らないので、難しいですね。もしかすると、これは一生悩まされる問題かも知れません。

< 問題の原因はどこにあるのか? >
 先に書いたことも一例ですが、自分が直面している問題の多くが「自分のせいではなく、社会の側の問題」と考えられるようになったことは大きな救いでした。実際、不必要な場面で、自分が悪いんだと思って自分を責めてばかりいれば、意外と気の弱い僕はつぶれていたかも知れません。
 こんなふうに考えられるようになったのは、高校生時代に障害者解放運動に触れ、「おかしいことにはおかしいと言っていけばいい」と思えるようになり、強く、早く、美しいことをよしとする価値観を疑問に感じられたことが大きいと思います。
 また、視覚障害以外の障害者と出会うことで、障害をより広い角度からとらえるようになり、ことの本質が見えやすくなりました。たとえば「さまざまな場面で経験の機会が奪われてきた」という問題などは、視覚障害者とだけ接していれば、見えなかったことかも知れません。 点字ブロックの前に自転車が置いてあり、進路を妨げられ怒っている白杖をもっている男性の様子

< 「障害のある自分」への自信 >
 自分でやらかす失敗はもちろん自分の責任ですが、それ以外の場面で必要以上に自分を責めずに済んだことで、「障害のある自分」に自信を持つことができ、その自信が次の一歩を踏み出す原動力になりました。
 自信が持てるようになったのには、他にも理由があります。
 一つは、親がのびのびと育ててくれたことです。親に傷つけられたり、萎縮させられたりせずにすみました。二つ目は「自分は人と違っていいんだ」と思えたことです。中学生の頃、深夜ラジオで「誰かが敷いたレールの上を歩かなくていい!」というメッセージに出会い、高校生のときに『“自分らしさ”を愛せますか』(レオ・バスカリア著)の本に出会えたことが、その基礎になったかと思います。
 さらに三つ目として「人とのつながりの中で共感・協力してもらえたこと」があります。しんどいときに自分の思いに耳を傾けてくれる人、何か始めようとするときに後押ししてくれる人に支えられてきました。そして、エネルギッシュに闘っている人から勇気をいただきました。
 余談になりますが、自分を否定され、自分に自信が持てなければ、自分を好きになったり、障害受容したりするのが難しいのではないでしょうか。ときどき「あの人は障害受容できていない」という言葉を耳にしますが、これは、その原因がいかにも本人にあるかのように聞こえてしまいます。「障害受容」できない原因は、むしろ、その人を取り巻く環境にこそあるのではないでしょうか。

< これからの自分 >
 しんどさの原因を社会に求め、「障害のある自分」に自信を持ってこれたのは本当にラッキーです。しかし、この自信は、その時々の環境に左右されてきました。実際、フリーター時代には、自分に自信を持ちきれずにいた面もあります。そこで、「こんな自由人がいてこそ社会に風穴を開けられるのでは?」と自分を奮い立たせていました。
 生活が安定してきた今、自分への自信は以前よりあると思いますが、ハングリー精神は弱まっているかと思います。悔しかった気持ちを忘れ、楽なところに逃げ込んでいるのでしょうか。
 最近は、障害者、特に視覚障害者のことを知っている人たちの中に身を置く場面が大半です。そうしていると、何でも気楽に依頼できるし、障害のある自分が追い込まれるような場面にも出くわしません。しかし、ややもすれば、「健常者は障害者をこう見ている」という感覚を忘れてしまいがちです。時には、あえてしんどいところに身を置いて現実を直視しなければ、社会をよりよい方向に変えていけないのではないか、と改めて思います。
 これまでも、進学・就職・結婚・・・という人生の分岐点で、否応なく「障害のある自分」を意識させられてきましたし、今後も、そうした場面に出くわすこともあるでしょう。そんなとき、「障害のある自分」に自信を持ちきれるという保障はどこにもありません。社会と、自分と、どう向き合っていくのか…。これからが本当の「障害受容への挑戦」なのかも知れません。


戻る


TOPページに戻る