連載企画!!

「私にとっての障害受容」〜パート11〜

当事者なら障害があることで一度は悩みしんどい思いを抱えたことがある人は多いと思います。障害受容ができにくい理由は人それぞれですが、何かをきっかけにもっともっと自分を好きになって楽しい人生を送ってもらいたいという願いを込めて『ニュースドリーム』では当事者の方々の障害受容をめぐっての連載をしています。第11回目の今回は障害者生活支援センター・いきいきで活動されている山浦孝臣(やまうら・たかおみ)さんです。    
プロフィール
写真:電動車いすに乗っている山浦(やまうら)さんがマイクを持ってお話をしている様子(上半身) 山浦孝臣(やまうら・たかおみ)

宮崎県延岡市出身
1942年2月20日生まれ 66歳

自立生活センターまいど〜MY−DO〜からフリーとなる。

現在、(社福)大阪府肢体不自由者協会
障害者生活支援センター・いきいき所長
ピアカウンセラー
(財)関西カウンセリングセンター認定上級心理臨床カウンセラー

「障がい者になる努力を惜しまなかった」
−私にとっての「障がい受容」−
「俺の人生は終わった」と観念する
 脳内出血に倒れた私は、集中治療室にいる間、自分がどうなっているのか、いくのかさっぱりイメージできませんでした。むしろ、病気だから、今の医学なら治る、治せるだろうと思っていました。
 ところが、一般病棟へ移された時、愕然としました。周りの患者は車椅子や歩行器ばかりでした。一瞬「障がい・障がい者」が脳裏を走りました。「うそじゃろう、障がい者になるんけ。俺が、何でや、何か悪いことしたんか?」。すっかり、動揺してしまいました。同時に、奈落の底に突き落とされるかのように、私の中の何もかもが、がたがたと音を立てて崩れ落ちていくような不安と予感に襲われていました。「もう、仕事はできないかも」と、まず、思いました。
 男社会にどっぷり浸かった生き方をしてきた私にとって、仕事のできない体になることは、首がないのと同じでした。経済力を失った男は、その価値すらもなく、男が男でなくなることを意味します。言わば、生ける産業廃棄物です。私は、それが怖くなり、夜になると布団を被って、泣いていました。
イラスト:介護用ベットで上半身を起こした状態で女性に食事介助を受けているが渋い顔をしている男性。  ある日、主治医に動かない左の腕と手の回復見込みを打診しました。主治医曰く「動かないことを気にせずに、動くところを上手く使って生きていきましょう」でした。回復の見込みなしと受け止めた私は、即、左腕を肩口から「すっぱり、切り落とす」ように申し出ました。主治医からなだめられ切断はあきらめましたが、このことは、後々、私の脳裏から離れることはありませんでした。そして、「俺の人生は終わった」と観念、「潔く散ろう」と決心しました。病院の窓から飛び降りることを試みますが、私にはその窓を飛び越えられる力はありませんでした。

 つれあいさんのひと言で「生きてみよう」と思った
 脳内出血に倒れたのは、1996年(平成8年)2月17日、54歳の誕生日を迎える3日前でした。当時、私は、パチンコ店の店長をしていました。救急車で運ばれ命に別状はなかったものの後遺症は避けられず、同年8月、1種2級の身障手帳を取得しました。
 窓から飛び降りることは、不可能と感じた私は、首吊り、薬物と自分の体力でも可能な死に方を思い巡らせていた矢先、つれあいさんが、パジャマの着替えをしてくれながら「すがた、かたちは、どんげでもいいと(どうでもいい)生きちょりさがすれば(生きてさえいれば)いいと」と言いました。このひと言で私は我に返ったように思います。死ぬことばかりしか考(かんが)えていなかった私は、このひと言で助かったぁ〜と感じ「生てみよう。生きられるかもしれない」と思いました。私の本音は死にたくはなかったのだと思います。だから、つれあいさんのひと言に「助かったぁ〜」と感じたのではないでしょうか?

 ピアスクールと仲間たちとの出会いが最大の転機
 つれあいさんのひと言がきっかけになり、私は積極的に「自分探し」をはじめることになります。最初は、1997年5月、部落解放人権大学講座受講でした。ここで、私の54年間の半生は、差別と偏見に満ち溢れた、文字通り「差別まみれの人生」であったことを自覚させられました。金さえあれば何でもできると思い上がった生き方をしてきたことに気づかされました。そして、私の手持ち時間を存分に使って人権尊重の生き方をしたいと思いました。
写真:大阪市立早川福祉会館の玄関前で撮った山浦孝臣(やまうら・たかおみ)さん  人権を尊重した生き方は、実際、どうすればいいのか? わかりませんでした。そんなある日、ピアスクールの受講生募集のポスターをみて応募しました。
 第3期生でした。障がいのあるひととの直接的な触れ合いは初めてに等しかっただけに、障がいのある受講生を新鮮に受けとめ、仲間として受け入れられたいと思いました。受講生仲間(以下、仲間とす)はすぐに私を受け入れてくれました。最も感激したのは、「頑張ります」を連発する私に「頑張らなくてもいいよ。障がいのままの自分でいいんだよ」と言われたことでした。そのままの自分の有様を受け入れて自分らしく生きることをさりげなく私に伝える仲間たちの素晴らしさを日常的に見せてもらい、学ばせてもらいました。人を傷つけずに自分の思いを伝える仲間に思わず、頭が下がっていました。後々、「パクリのやまちゃん」と言われるようになったのは、全てが万事、仲間から盗んだものばかりでした。不思議なことに盗むたびに元気になり快感でした。私にとって、仲間は最も身近なロールモデルであり、私を、私の人生を変えてくれたサポーターだと思っています。

 ピアカウンセリングが「生き直し」の武器に
 ピアスクールのカリキュラムそのものが、障がいとは無縁な世界にいた私にとっては、新しい発見以外の何者でもありませんでした。
 そのピアスクールで衝撃が走った! のです。それは、ピアカウンセリング(以下、ピアカンと略す)の時間でした。リーダーは東京の野上温子(のがみ・はるこ)さんでした。ピアカンに触れながら、私は、心の中で叫んでいました。「これだ、これが、俺の行く道だ!」。私は勇気づき、体が熱くなり、手当たり次第に飛び跳ねたい衝動に駆られたほどでした。
 ピアカンは、人権尊重が命です。ピアカンの前に人権ありと思いました。私は「人権を体の真ん中に据えた生き方をして行きます」と部落解放人権大学講座のレポートには、そう書いています。部落解放人権大学講座は1997年7月修了。即、そのままピアスクール開講、同年11月修了。驚いたことに、間髪入れずに、「生き直し」の方向性が用意されていたことになります。
写真:電動車椅子に乗っている山浦さんがマイクを持ってお話している様子(全身)  私は、一気にピアカウンセラーを目指して走り続けました。それは、走ると言うよりは韋駄天走りであったように思います。1996年2月、脳内出血に倒れ、その2年後(1998年7月)にはCILの職員として勤務。待望のピアカウンセラーとして認定されたのが1999年8月でした。
ピアカンを通して新しい発見をするにつけ、私は自分が変わるのを感じはじめていました。短気で攻撃的な性格である私が優しくなっていると自分でも感じられるほどでした。もちろん、性格が変わるはずはありません。短気で攻撃的な性格の自我状態を上手にコントロールできるようになっていたわけです。とにもかくにも、ピアカンが私の目標とした「生き直し」の武器になって行ったことは言うまでもありません。

 「障害受容」は障がい者になる努力を惜しまなかった
 「障害受容はできていますか」と問われたら「障がいを、障がい者であることを楽しんでいます」と答えています。誤解を恐れずに言わせてもらいますと「障がい万歳!障がいよ有難う!良くぞ、私を選んで下さいました」と感謝してはばからない私になっています。倒れた当初は、天に向かって「俺、何か悪いことしたんか」と言ったことと正反対になっています。自分でも、こんな日が来るとは思っても見ませんでした。一体、どうしてだろうと考えてみますと、短気で攻撃型の性格と上手くお付き合いが出来るようになったからだと思います。
イラスト:笑顔の山浦さんが旗(みんなあつまれ〜と書かれている)を持って振っている様子  思い返してみますと、私は障がいのあるひとになってトントン拍子に身も心も絶好調の人生になっています。それはどうしてなのかと言いますと、あきらめるのが早かったからです。障がい者になるとわかったとき、障がい者にならないように努力するのではなく、障がい者になる努力を惜しみませんでした。障がい者として効率よく行動するために自歩状態をいち早く捨て、電動車椅子に切り替えました。電動はイラチな私にぴったりでした。イラチな性格を逆手に取って、障がいに気を揉むのではなく、障がいの懐に入り込む=障がいを抱きしめる。いい意味での開き直りによって、いつの間にか、障がいが私に擦り寄ってきました。そう、感じています。その障がいは、今や、私にとって、イラチな私自身の成長を促してくれるかけがえのないパートナーなのです。


戻る


TOPページに戻る