| 連載企画!! 「私にとっての障害受容」〜パート13〜 |
| 当事者なら障害があることで一度は悩みしんどい思いを抱えたことがある人は多いと思います。障害受容ができにくい理由は人それぞれですが、何かをきっかけにもっともっと自分を好きになって楽しい人生を送ってもらいたいという願いを込めて『ニュースドリーム』では当事者の方々の障害受容をめぐっての連載をしています。第13回目の今回は自立生活センター・まいどで活動されている下村雅哉(しもむら・まさや)さんです。 |
| プロフィール |
下村 雅哉(しもむら・まさや)
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| 障害受容 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「100回自分のことが嫌い」でも「101回自分を好き」になればいい! 僕にとって、障害受容とは、「自分のことを好きになること」「自分を認めること」だと思う。でも、なかなかできない。だからこそ、「自分を認める」ということを何度も何度も思い出す作業が必要だと思う。 「障害受容」というテーマで原稿依頼を受けてから、自分の半生を振り返ると、どんな時も、何かにすがるようにして、自分を認めていたように、思っていた。またそんな材料を求めていた。これからも、どん欲に「自分を認られる」材料を追い求めていくと思う。 |
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昭和43年1月31日生まれ。 生後、呼吸が出来なかったために、すぐに泣かなかった。約2週間高熱が続いて、それが原因で脳性麻痺となる。
幼少期〜大阪府立身障者センターや肢体障害児通所施設「あけぼの園」で日々、機能訓練に励む。両親からは、自分の毎日の訓練が生活の中心だったと、聞かされている。まさに、雨の日も風の日も、訓練の毎日であったそうだ。 その訓練の成果なのか、4歳の時、つたい歩きを始める。 養護学校時代〜 大阪府立堺養護学校小学部に入学。 学年が進んでいくうちに、校内中を歩き回ったり、いろんなスポーツにチャレンジするようになる。
また、家では駒付き自転車に乗れるようになった。休日になれば、かなり離れた村まで行って、弟と一緒に探検していた。高学年になるにつれて、なぜか近くにある中学校に興味がわいて、春休みとか夏休みに、無断で校舎に入り、探検した。ある日、誰もいない1年の教室の中に車椅子が1台あることに気がつく。「この学校にも障害のある子もいるんだ。」と思った。 中学校に上がると、一人の友達が、一般学校に転校したことを知る。同じ頃、父方の祖母が倒れて、母親が自分の学校への送り迎えや、付き添いが困難な状態になった。両親に「一般の中学校に行きたい」と伝えた。中学1年2学期から校区の中学校に転校。 中学・高校時代〜 初めて健常の子と毎日を送るので、みんなに付いていくのが精一杯だった。そして、当然の事だが、今までの重度の障害の子を助ける立場から、みんなから助けられる立場になってしまい、とても戸惑いを感じた。そんな中で秋の体育祭で、全校生徒2000人の行進に加われたことの感動は、いまでも覚えている。しかし、その頃から、いじめ・無視が始まる。自分に対するささいな言葉に、毎日神経が高ぶり、しばしば泣いてしまう事もあった。周りからは、「あいつといてたら、先生から誤解される」と思われてしまい、だんだんと友達が離れていき、苦痛な毎日が続いた。学校を休みがちになってしまい、「もう養護学校にもどろうか」と何度も考えた。しかし、今戻ってしまえば、絶対後悔してしまいそうな気がした。養護学校の友達の電話にも、変に強がっていたように思える。2・3年と新しいクラスにかわる度に、本当に信頼できる友達に出会うことを期待していた。でも、今から考えると、障害を変に隠したり、また逆に「どうせ、みんなとは違うから」とあきらめてしまったことが、自分がいつもみんなの中に入れなかった要素ではなかっただろうか? そんな中で、3年までなんとか過ごした。高校進学では、「養護学校の高等部に編入」を考えたが、「自分の世界を広めたい。いろんな人と交流したい」また「みんなと一緒に高校受験にチャレンジしたい」という気持ちを大事にして、一般高校の進学を希望した。しかしながら、はっきり言って漢字の読み書き、数字も小学校低学年のレベルしかなかったので、苦労した。3年生の夏休みなどは、毎日学校に行き、先生方に教えてもらった。そして、なんとか合格する。 高校になれば、「自分も含めて、周りも大人になり『いじめ』などはなくなっていく」と思っていた。確かに、中学よりは、以前の明るい自分になり、クラスの中で人気者になった時期もあった。でも、それはいつも一時的なことで、悩み事を言える友達はできなかった。学校の帰り道に喫茶店に寄ったり、休みの日に外出したり、といったごく当たり前の高校生の過ごし方ができなかった。もどかしかった。障害者だからなのか? それとも、自分がひ弱からなのか? ずいぶん悩んだ。でも、毎日学校に送ってくれる親には、弱音は言えなかった。大学には初めから行く気がなかった。 高校卒業後(1986年)は、 あいえる協会の前身であるライフ・ネットワーク作業所(1992年)にかかわるまでの経歴は、約1〜2年転々としながら、自分の居場所を求めていた。 1986年3月 高校卒業 @信仰していた宗教の修養という名目で、初めて家族と離れて暮らす経験をする。 A1年間、障害者職業訓練校に通う。自分と同じような悩みを持っている友達と出会う。 「障害者の就職懇談会」にかかわる。 B堺の作業所へ通う。メンバーの中に施設から出て一人暮らしをしている障害者と出会う。 C経理専門学校に通い、一般就労を目指す。20社近くの会社を受けるが、採用してくれなかった。 障害者運動と自分の自立 1970年代、障害者に対しては、障害を軽減する「発達保障」という考え方が主流で、障害を克服するものだととられ、障害者は日々訓練に追われてきた。重度障害者は、「安心・安全の暮らし」という名のもと、大規模施設が次々に作られ収容されてきた。 その状況を打開するために、身体を張って、社会に抗議やアピールをした「障害者運動」が始まった。しかし、重度障害者は施設へという流れは根深く、現在でも残っている。 どちらかというと軽度障害者であった私も、学校を卒業してから「自分の居場所を求めて」という想いから施設に入った経験がある。自分では、「授産施設」を選択してしまったという想いがあったが、今思えば、やはり障害者が地域でうける抑圧の中で、「施設」を仕方なく選んでしまったと感じる。 私が経験した施設生活とは、朝から晩まで作業に追われ、一歩も施設内から出ることがない日が続いた。そんな生活にもなじもうとしていた。 私より若かった入所者から「私は、どうせ、施設のたらい回しされるから、夢なんかない」という発言が印象的だった。その言葉に対して何もコメントをできなかった自分も覚えている。また施設長からは、「いいニュースがあります。隣りに老人ホームを建てます。これでみなさん一生ここで安心して暮らすことができます」と自慢げに言われた。その言葉に対して、何も反論はしなかったが、とても嫌な気分になったことは、今でも思い出される。
「施設の障害者・外出ネットワーク」にかかわり、施設訪問し、施設障害者にあうたび「長年、施設に暮らしている障害者」「いったん、施設に入ると一生施設で…」という言葉が実感できた。その一方で、「障害者の活動と生活は、障害者自身で切り開く」という理念があり、「仲間作り」「障害者の主体作り」の大切さを学んだ。その中で自分自身の自立生活も考えられ、一人暮らし(自立生活)を始めたのか1993年。 活動は、施設からの地域移行を、「ピア」仲間として「自立支援」や「生活支援」に現在もかかわっている。 ピアの力を…感じて ぜいたくかもしれないが、今の私の歩き方には3パターンの方法がある。 まず、一つは「地下鉄など遠出の予定があるもしくは雨模様なら電動車椅子で…」「区内の移動なら、自転車で…」「徒歩」と、天候、行動範囲で、電動車椅子、徒歩、自転車の歩き方を使い分け・選択している。 ここに至るまで、さまざまな葛藤があった。 まず、単独歩行は、小学校でようやく「よちよち歩き」を始めた。三輪自転車の方は小学高学年のころから乗り始め、自立生活をスタートしてからも、通勤や買い物などの近距離の移動には欠かせないスタイルだった。 足で歩くことにこだわっていた。歩くことに汗を掻き全エネルギーを注いでいた。障害を否定的には、もちろんとらえてなかったが、「格好よく歩かなくちゃ」と意識が常にあった。 周りの人からは「おまえも電動を使ったら…」とずっと前から言われてきたから。自分も「三輪自転車のままで電車に乗りそのまま繁華街を三輪で移動したら、どんなに楽なことだろう…」といつも感じていた。 でもその一方で「まだ歩けるのに…」「電動車椅子に頼ると足が弱くなる」と言う想いがあった。まいどの活動の中でも「相談者に対して、制度やサービスを促す立場なのに…」という葛藤もあった。 …で、決断できたのは、やはり仲間の存在だ。自分と同じような障害の方が、簡易電動車椅子を利用している姿を見たり、話を聞く場面が増えてきて、まあぼうも、次第に柔軟な発想になり、「歩くのに活力を注ぐよりも、移動先で、いろんな人と出会いやコミニュケーションを取ることにエネルギーを注ぎたい」という想いから、戸惑いながらも、簡易電動車椅子を利用することを決断できた。
簡易電動車椅子を利用すると、言うまでもなく、行動範囲が広がったり、体も楽になり、さまざまな人とつながりができていること実感している。それと、簡易電動車椅子を利用し始めた途端、よく利用する駅にエレベーターが付いたりしたことは驚いた。 その背景には、電動車椅子の利用者達が長年にわたって行ってきた、地道な運動の成果を感じながら、感謝しているところ。まだまだ、人生半ば、ワクワクしながら挑戦していきたい。そんな自分を楽しんでいきたい。 |
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障害受容をめぐっての連載「私にとっての障害受容」も今回で13回目となり、みなさんに好評をいただいているコーナーとなっています。今までのバックナンバーを改めて紹介させていただきます。
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